紙すきの思い出

北信州 木島平村の皆さんに、昔の紙すきの思い出を書き綴っていただきました。ご本人が書いてくださった文章から、一部読みづらい部分や方言的言い回しなどを書きあらためて掲載しています。
個人の思い出を辿ったものですので、思い違いなど事実と異なる点が含まれている可能性のあることをお含みおき下さい。今後さらに聞き取り調査などをして、確認された事項は随時更新してゆきます。
わからない部分、読んで疑問に思った点やくわしく知りたい部分などありましたらtayori@kamisukiya.comまでお知らせください。

転載・引用を希望される方も上記メールアドレスまでご一報ください。転載時には「資料提供:木島平村・内山和紙体験の家」と記載してくださいますようお願い致します。(文責:上埜暁子)


内山紙郷の一年
 内山在住 Sさん 男性(大正15年生まれ)

 内山紙の歴史を語るとき、江戸時代の始祖、萩原喜右衛門さんを抜きにして語ることは出来ません。豊富な湧水と燃料豊かな山々、また天然の雪など素晴らしい環境に恵まれた故郷、内山。喜右衛門さんはこれに感動され、大きな夢と希望を持ち、寛文年間伊勢神宮参詣の帰路何処かで勉強され、家で障子紙の製造を始められました。これが内山における製紙の始めでした。

 その後多くの先輩たちにより改良が重ねられ、内山といえば障子紙、紙といえば内山と、全国津々浦々までその名を広げることが出来たのです。

 まず最初は紙漉の妙薬、ニレ(のりうつぎ)を採取する楡切(にれきり)です。十月に入り営林署より払い下げてもらい、隣近所三〜四人で暗い中家を出ます。場所は北の入・本沢・赤だれの三箇所で、赤だれ方面が多かったようです。

 七時頃に現場到着。一面背丈程の笹薮で所々にブナ、トチの大木があり、静寂に包まれ聞こえるのは小鳥の声だけ。はぐれないように隣の人とオーイオーイと声を掛けあい、ニレをみつけるのです。笹薮に白い花が見えるのがニレで、四箇所くらい見つけ切ります。一株三本位ありますので、切ったニレを木場まで運び出し荷造りします。道が狭いので立て背負いです。お昼を食べて帰路に着きます。ベテランは二十〆、私たちは十四、五〆です。

 帰りは坂道で、少し行くと足や背中が痛く、古老の言う一寸ずりです。家につくのは暗くなってからです。次の日は足の休養です。また古老たちは秋の楽しみで三回位山へ行くそうです。なお、秋は山の天候の激変や短日のため十月二十日前後には終ることにしています。

 その後徐々に草ニレの「トロロアオイ」を使用するようになりました。

 十二月、雪降る前に楮切りをし、更に三尺位に切り、大釜で蒸し、皮剥ぎをします。近所隣りで結(ゆい)をし、朝三時頃から始めて、三日で終ります。

 この黒皮を家の廻りにつるし乾燥させます。

 乾燥した皮は水に浸し日に当てたり凍らせたりして表皮を削り取りやすくします。学校から帰ると三連をハゼに吊し、水を切り凍らないように菰に包み、家に運びます。夕飯後皮かきをします。これを雪ざらしにします。

 七日〜十日位さらすと白皮になり、白皮に更に薬品を加え、大釜で煮沸し水洗いします。水洗いは龍興寺清水で、寺の小屋と中の小屋、下の小屋と三ヶ所があり、主に婦女子の仕事です。何もない時代に色々の情報収集場所として楽しそうです。

 水洗いした皮はその晩晒粉で更に白くして、昨日の皮を家へ持ち帰り、夜に叩解します。叩解工場があり、仲間の人はその工場で、それ以外の人は家で叩解します。

 夕飯後は隣近所の叩解音で賑やかです。昔の一枚盤の時は座って石の上で叩解したそうです。我が家にも二ヶの石が残っております。

 また当時、農林高校でも紙漉き工場があり、練習した思い出があります。叩解は父と母の仕事で両方にいて立って叩解します。

 私は復員後、父に代わって二枚判で漉き始めました。最初は隣近所の家をたずね色々話を聞いたり見たり何回も勉強しました。昭和八年頃は二軒ばかり板乾しの家がありました。家にも板乾しの板がたくさんありました。外は皆蒸気乾燥です。

 乾燥は祖母の仕事で、夜遅くまでランプをつけて仕事をしておりました。

 紙の選別および切断等は祖父の仕事になります。

 荷造りは一丸(ひとまる)をひとつの単位とし、一丸は1200枚です。目方は一〆(ひとしめ)二百匁以上〜二百五十匁以下におさまっていなければなりません。値段は三千円台になったと思います。漉き手は十歳二十歳でも、高く売れる質の良い障子紙の生産に力を入れてまいりました。

 昭和二十七年頃、簀桁を四枚判にし、動力を入れて漉くようにして、仕事も楽になり能率も上がりました。紙漉きが盛んになるにつれ、紙問屋も発達しました。野田重を始め和泉屋、依貞(よさだ/当て字?)さん等があり、番頭さんが漉屋を訪れて値をつけて買取ります。良い値で買ってもらう為に漉人は応待に気をつかったようです。

 時代が進むにしたがい建築様式も変わり、また洋紙の進出により障子紙生産は減少しました。またえのき茸栽培が各地で盛んになり、内山でもえのきに切り換える人が多く、四十年頃ついに私ほか三名となり役員も二名いたところが一名となりました。私も最後の役員理事として後々の事務処理に当たり、昭和四十四年遂に三百有余年の伝統をほこる内山障子紙の歴史に終止符を打ったのです。

 その後記念碑、体験の家等の建立が成り、復活するかに見えましたが長続きせず、幸い後を引継いだ方が障子紙のほか多面的な用途を研究され、紙を材料にした手工芸品等数多く研究され、学校関係や観光客等多くの人が来訪され内山も活況に満ちております。

 思い出をたどりますと、障子戸は音も良く通します。毎朝五時に飯山の製紙工場のサイレンが鳴り五時半に汽車が動き出す、その音が良く聞こえます。冬場に良く聞こえる時は大体晴れでゆっくり朝休み、聞こえが悪い時は早く起きると雪降りで、雪踏みや雪ざらし、皮を集めるのが私の仕事です。家族全員で仕事ができること、これが家庭円満につながっていたのではないでしょうか。

 また昭和二十一年頃のこと、四月頃紙漉きが片付いたのでちょっと裏山へ。ところどころ桜が満開で、三ヶ所くらいから長持唄(ながもちうた・婚礼のときに唄われる)が聞え、のどかな農村の原風景そのものです。

 婚礼でいただいた御馳走は、「シトッコ」というもので持ち帰ります。少し長めの藁を多めに両方を結んで、穂の方を二本縄口(なわくち)にして結んだものです。

 新聞紙を敷き、シトッコに御馳走を入れよく閉じて結びます。新聞紙はぬれると弱く、破れて道々御馳走をふりまき、家に着いた時は何もありません。「キツネ」に食われたと子供もがっかりです。紙漉き農家は新聞紙のかわりに、くし紙(=ふし紙・黒皮のはいった粗い紙)二枚にしました。ぬれても破れないので子供に無事とどきました。キツネ出なくて良かったね、と喜んだものです。

 障子紙の強さを実証する出来事です。強く美しい内山紙は、このような用途にも多く使用されておりました。

(平成25年4月 本人記)

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紙すきの思い出
  内山在住 Hさん 男性

 昭和30年代、我が家の紙すきの実態を子供心に、19歳当時の日記に記したものを中心にまとめました。

 このころは、内山でも数多くの紙すき農家があったと思います。

 我が家では、田畑も少なく、内山紙の収入が家計の中心でありました。今思えば、寒の最中ながら、良くこんなに働いたもんだ、働かねば食えない時代だったのだなあと思います。当時は何の抵抗もなく、親に言われるまま。勉強は学校ですればたくさん、家に帰ったら、家の仕事を手伝わなくちゃいけないと良く言われました。手伝って親に誉めてもらうのが楽しみなくらいでした。

 1月の3日には、もう紙を煮る大釜の点検・修理・取り付け

   8日には、紙煮の準備

   9日には、第1回の紙煮

   10日には、筋拾いの準備を始め

   11日には、筋拾いを始めました

   12日  紙すく部屋の整理整頓

   14日から本格的に紙すきを開始

   17日 半日だけ、4時間、紙すき

   18日 8時間 等々と紙を漉くわけですが

 すく準備の作業工程も次から次と並行して行います。

 しかわ取り、紙煮、筋拾い、ニレむき、紙ほし等、日記をもとに、工程別にまとめて記します。、

●楮運び 楮はぎ

 自家の楮切りは昭和32年には11月22日に始まり、26日まで。27日は内山の部落内、28日馬曲の一部、30日北鴨方面、12月2日馬曲方面、4日平沢、馬曲の残り。

 各方面から買い集めて、12月3日より、かずこなし(枝を払い)。短いものをまとめて目楮(めこず)束とする。5日、6日とかずこなし、枝はえり、12日に終わり。

 次は釜の深さに合せて一定の長さに押しガマで切り、大玉にする。

  13日より大玉作り。15日には大玉作り終らし全部で27玉。

 大玉は、玄関の入口で作り、大人1人で抱きつかれない程の大きさで、ワイヤーでまわりをはたきながら、カズをなじませて、硬く締めて縄で両端をしっかりしばり、細木を二本並べたレールの上をころがして、庭の畑に積む、かなり重いものを二段にも、場合によっては三段にも積んだのを見た記憶があります。この頃はどこの家の庭先にも見られる光景でした。

 12月15日カズ玉作り終わり。子供の頃の記憶としては、外は真暗な中、かすかな電灯をたよりに、大玉をころころ転がして積むのも夜遅くまで続いた。

 16日には、かずはえの準備。台所の土間にどうのげ(ヤガヤに似ているが、ヤガヤより柔らかい)をかなり厚く敷いて、その上にねこ(藁であんだもの)を敷き、台所中がすべぶとんの様にガサガサして、そこで、とんだりはねたり遊んだもので、一年に一度の年中行事として、楽しんだ思い出があります。

 夕方からは、かや(雑木を枝ごと結束したもの)をどんどん燃やしてふかし始め、次の日まで止釜にして、17日の朝は、早くから寒いところですが、頼んだ人たちが次々と集り、2時半には4人集り、いよいよ作業開始。

 かずの上にかぶせておいた桶を取り、カズ玉を上げると、釜からの湯気で、一気に台所中が暖かくなります。カズも熱く、手袋等で熱さをこらえて一本一本、こうずの皮をはぎます。次から次と、カズをふかしてははぎ、初日には10玉終わったのが夜10時10分。一日の労働時間、19時間40分。

 18日には2日目、3時〜夜7時30分。4人頼み、9玉、16時間30分

 19日には3日目、3時〜夜7時30分。4人頼み、8玉、16時間30分

 三日連続でやっと終る。かずはえの間は、2日目、3日目と疲労がたまり、火だけは続けて燃やしているので、寒くはないが一日が終わり、頼んでいる人が帰ると、気がゆるみ、茶の間の大きいいろりは、おぎ(火をもやした燃えがら)が山盛り。ついついうたたね。かずはぎが終ると本当に家中皆で楽々します。しばらくはいつもの生活に戻るまでゆっくりします。

●しかわ取り(黒皮除去)と 雪さらし

 昭和32年は、1月11日から始めて、2月26日にぜんぶで151連終る。

 楮の皮を小束に結束して、1連15束のものを皮をはいだ後の棒につるして、水の中に浸しておいて、夕方水のしたたるままハゼにかけて凍らせて、皮の表面がしみてガリガリしているところを「おかき」(木の柄のついた金物)を右手に持ち、左手で皮を引っ張って、隅からすみまで、うすい黒皮をはぎ取り、楮の皮だけにする作業。夕食後、もっとゆっくりこたつにあたっていたいところでも、さあわえら、しかわ取り頼むぞ、早くやって早くしまおうと母親に言われて、いやいやながら冷んやりとした台所へ。

 土間に敷いたちょっとした敷物の上で、身ぶるいがするような寒さ。特に寒いときは、杉葉を燃やしてあたるがつかの間の気休め。手を動かしていると冷たさで段々手がバカになって、それを通りこしてほてってくればしめたもの。体があたたまってくれば気分も壮快になります。

 我が家では大体3人で2時間ぐらいの夜なべ仕事。

 次の朝、しかわを取ったものを水の中に入れてよさぶって(ゆすって)、ごみを洗い落として、雪が降っても降らなくても雪の上に広げます。庭中田畑に目印を立てて並列を作ってさらし、適度に雪が降ってくれれば良いですが、雪がどっさり積もったときは、棒の先にカギのついたので一束ずつ掘り出さねばなりません。

 好天の時は、カズの上に雪をかけ、日中その雪がとけて白くなります。

日曜日の日中、スキーに行きたくともカズの上に雪をかけ、消えたらまたかけねばなりません。白くなったら、集めて、次の工程です。

●紙煮

 大きな釜で時間をかけて、ぐつぐつ煮込みます。煮れば柔らかくなり、量もかなり少なくなります。

 昭和33年は、1月2日に紙煮準備をして、1月3日第1回紙煮。朝6時〜9時30分煮立ち、楮上げてアク出すまで4時間30分大釜でカヤ(秋にナタ鎌で切る程度の、あまり太いものではない雑木を結束して二階に保管)は細いぼやでよく乾燥しているので、二階から落とすとほこりにもなり、燃やすと良くもえ、火力も強いが、何せひどい煙も出ます。火をつくろうにほこりまみれ。煙は台所の天井をはい、茶の間から、勝手、座敷まで、煙ですすけます。これを1年に16回も繰り返すのですからたまりません。

 紙煮は年によって違いますが、33年は、16回。大体早朝から。

 1回は、朝2時から、3時からが6回、4時台が1回、5時台4回、その他4回。火を燃やしている時間は約3時間。その他の作業に約1時間。

●節拾い(紙さわしとも言う)

 節拾い場の小屋は、共同で秋に作り、春になると取りこわし、毎年作り替えます。

 昭和34年には、1月5日節拾いの準備をして、6日から始め、4月23日まで延べ84日間。一日平均8時間44分になります。

 今の竜興寺清水の汲み取り場の上から下までずらーっと並んで、寒中手を水の中に入れっぱなしでの作業。白くなった楮の皮を一本一本たおみながら(たぐりよせながら)、ごみや、節を取り除きます。手が冷たいので、「おぼ」(灰の中に火を入れる入れ物)で手を温めながら、長い長い一日を同じ姿勢で実に根気のいる仕事を世間話をしながらする作業です。

●紙はたき

 子供のころ共同作業所があって臼が7つも8つも並んでおり、家から紙さわした原料を桶に入れて、背負って持って行っては、原料をはたいたものです。木の羽根が同じ所でなくまわりながら、トッチントッチンとはたき、時たま撹拌したり、のりを注いで時間を見て上げます。

●紙すき

 昭和34年1月14日からすき始めて、5月4日まで延べ紙すき日数が86日間777時間になりました。一日平均9時間3分、すき屋(紙をする小さな部屋)に入って立ち通しの作業。86日間のうち、夜漉かないで、昼間で切り上げたのが16日間だけ。あとは夜食休みもろくろくしないで、夜おそい時は、11時〜11時半まで。部屋の暖房といえば、火鉢の炭火がたよりだが、炭火じゃ知れたもん。夜になれば段々火の気も細くなる。

 こんな火鉢で灰の中で焼いただんごをもらったのも思い出の1つです。

 朝一番のすき船の中の水は、さぞ冷たいと思います。紙すきは手を水の中に入れっぱなし。すく時も水のしぶきがとんで来る。しかも部屋が狭く動く範囲も限られ、同じ動作の繰り返し。すいた一枚ずつを重ねた紙床からはたえず水がしたたり、水が流れる。以前は節拾いした原料を細かにたたく共同作業所があったのですが、個人の家に設置する様になり、すいている間に臼でつき、すき船に入れて、こぶる(撹拌する)時も機械で、かなり高い音がします。こぶる装置は馬鍬のように何本もの竹が出ており、前後に動いて撹拌するものです。一流の工場並みの作業を一人で行っております。寒中はどうしても時間も少なく、能率も上がりませんが、4月に入ると殆んど毎日11時間労働、そろそろ苗間を作る頃、早く雪を割って消して、庭に苗間を作り、藁を切ったり、堆肥を入れて、まわりを藁であんで、上に土を入れて、サツマイモの仕込み、ナス、キウリ、トマト等の苗作り。殆んど家で野菜苗を作ったもので、父親は紙をすきながら、窓越しに見て、思う様に進まないので世話を焼いたり、しかったり。父にはしかられっ放しでした。

 冬の仕事の紙すきが年によって違いますが、この年は、5月4日までかかりました。

●紙ほし

 トタンの中に水を入れて、薪でわかして、紙を1枚ずつ細い棒に巻きつけてはトタンにはり、ハケでサーとふいて、乾いたらはいで次のをはる、繰り返しです。

●にれ切り

 にれの木を切りに行くのは、決って馬曲山。

 33年10月19日第1回にれ切り(本沢の外)母と2人朝5時家を出る。雨が降って来た。途中少々小降りとなった程度。大ブナの木に33.10.19.Hと鉈で刻み、むすび食う。三角点を過ぎ、川ずたい上に登り、一ヶ所13本その近くで7本荷物が出来たので、荷物をまとめて、帰りの準備。帰りの途中ぶどうのあった所で少し日が差し、ここでむすび食う。途中でキノコもあり、雨がひどくなり、3時25分帰宅。家を出てから、10時間25分過ぎ、荷物は2人で13×600匁あった。

 10月21日2回目のにれ切り、4時5分家出る。9時頃むすび1つ食う。相当上まで登り、土砂崩れのひどい所通り抜け、にれなく、途中から藪のひどい細道に入り、下りすぎて道に迷い、道に出たのが12時30分頃家に着いたのが5時半ごろ(約13時間30分)

 10月25日3回目のにれ切り

 6人で行き3:30〜4:30(13時間)2人で8×500あり、ナシの木においてくる

 11月5日5回目にれ切り  3人で行き、3:30〜5:00(13時間30分)本沢へ。今迄で最高というくらいの良いもの多くあった。

父、母2人で22×500

 今から56年前一年に5回も馬曲の奥山までにれの木を切りに、父、母が主体で、(父53才、母45才)一緒(18才の時)に行った事もありますが、とにかく後をついて行くのがやっと。早く休みにならないかとそればかり思っていました。朝は2時頃起きて、雨が降っても、予定通り強行。真暗の中、懐中電灯も持たずに、ただひたすら、前の人の後をついて、すべて歩き、かわらこばについてもまだ暗い、やっとほんのり明るくなる気配。でもまだ暗いからと言ってゆっくり休んではいない。あまり長く休むとかえって疲労が出る。山道でも道らしき所を歩くときはまだしも、いよいよ藪の中に入り、遠くから眺めて、にれの木の実を見つけて、一直線に進むときは、藪ひどく、つるあり、木あり、やっと見つけて切って2本や3本では背負うわけに行かない。かなり長く切るので、それを持って次の所まで見つけながら動き廻るには、にれの木が細くとも重過ぎる。まとまってある訳ではなし、お互い離ればなれ。声を掛け合いながらでもあまり動くと迷ってしまう。おいて行かれない様に荷物をまとめて、今度は縦に背負って山歩き。これまた大変。道に出るのが必死です。山の仕事は、早目の下山が鉄則です。

 子供の頃の思い出は、家にいる留守部隊は午後2時か3時に、鉄の輪のはまった石ごろ道でもガタガタ進む荷車を、2〜3人でかわらこばまで押し上げて、荷物を持ちに行ったものです。

 畑で作る草にれものりが出て、どこの家でも作ったものですが、山奥の重たいにれは、表皮をきれいにはいで、中の白いものだけをうすくけそいで使う。手はかかるが、質が全然違うようです。

 にれ切りは危険でもあり、とにかく重労働です。一回行ってくれば2〜3日は仕事になりません。年令と共に難しくなってくる作業ではありました。残念なことですが今となってはまったく廃れております。

●選別、紙そろえ、包装、出荷

 家中で苦労して、皆で作り上げた内山紙ですが、品質も工程中の調整やら、技術等々により、品質にばらつきがあるかも知れません。一枚一枚手に取り、いよいよ選別、紙そろえ。これは根気のいる工程で、肩が張ったり、腰が痛いらしく、父によく肩をはたけと言われたものです。

 紙の裁断も幅の広い包丁で、良く切れそうなものを、さらにその都度懇切丁寧に研いで、使います。枚数が多いので、定規の厚い板の上にのり、角度も1ミリたりともずれない様に、機械で切った様に切るには、相当の熟練した技術が必要です。

 包装は25帖(1,200枚)一丸に梱包して出荷する。子供の頃、学校へ行く時バスに乗って、瑞穂の北信内山紙工業共同組合へ小使いがなくなると、背負わされたものです。

(平成25年4月 本人記)

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紙漉きの思い出
 Yさん女性
   (昭和19年生まれ 飯山市瑞穂富田出身:実家が紙すき)

 私の生まれた家は、冬仕事に紙すきをしていました。

 父、母がこうず切りをしてくると、大きな釜で1mくらいに束ねて蒸かし、近所の人2〜3人来てこうずはぎです。皮をはがした残りの木はカズがらと言って、ご飯の仕度の時のまき代わりによく燃えました。それに私のスキーの杖にして使っていました。

 次はこうずの皮かきです。土間にわらであんだむしろを引いてすわり、ひざの上にぼろ布を掛けて、一枚一枚のこうずの皮をこすり、10〜20本位で束ねます。私は学校の休みの日や学校から帰ってきた後に手伝いました。寒い冬は手が冷たくて、自分の口からはく息で手を温めながら仕事をしたつらい思い出です。

 次は雪の上にこうずを白くするためにさらします。雪が多く降る日は、こうずが埋まってわからなくならない様に、ところどころによせておきます。天気になるとまた雪の上に広げ、上下を返しながら白くなっていきます。

 次の仕事はくし拾いです。毎年来てくれるくし拾いのおばさんに、暖をとるためのあんかを届けに行くのが私の役目です。くし拾い小屋であんかをおばさんに渡すのが嬉しかった事を思い出します。今はもう小屋はありませんが、きれいな清水が流れていて、思い出の場所は残っています。

 つぎは紙たたきです。機械でたたく前は、父、母、兄、私で大きな板の上でたたき、こまかくしていました。たたく板も横20cm位、長さ30cmくらいで、たたくのは重い棒の様な記憶が残っています。

 これから紙すきです。父は着物を着ていて、父の立っている場所の下に30cm×30cm位の囲いがあり、灰がはいっています。囲いをまたいで父は一日紙すきです。着物の下から暖かい空気が入り、暖を取っていたのでしょう。でも手は一日冷たかったでしょう。

 母は父のすいた内山紙を乾燥します。乾くと一枚一枚はいで、つみかさねていきます。まきを燃やしていて、上にのっているトタン板でできた乾燥板の中には熱いお湯が入っています。水の量があるかないか見るための口の開いた部分に、昔はあまり食べることのできない玉子を入れて、母がゆでてくれるのです。その玉子がこうずかきやこうずさらしを手伝ったおだちんなのです。玉子のおいしかった事、一個の玉子の懐かしい思い出です。

 最後は母が乾かした紙を板の上に10cm位きちんとそろえて載せ上にも板を上げてその板の上に父が上がり、四方を板に合わせて大きな包丁で切りそろえ出来上がりです。

 私の家の障子紙は父の自慢の内山紙です。掃除の時はたきをかけると、とてもよい音がするし、とにかく丈夫でやぶれなく、色が黒ずんできた時張り替えていました。

 紙漉きの思い出で、なんと言っても忘れられないのは、こうずの木の株にはえるこうずのきのこです。秋になると取りにいき、みそ汁を作ります。ぬめりがありつるつるしていて今の山なめこと一緒です。かずきのこと、トーフのおいしかったみそ汁は今も食べたい懐かしい味です。

(平成25年4月 本人記)

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部谷沢在住  Aさん 男性(大正15年生まれ)

昭和8〜9年ごろ

 農林高校で2年(冬のみ)紙すきの教育を受ける。

 楮の皮むきから、雪の上に並べて雪をかけたり、コンクリートの台の上でたたく仕事からクシ拾いなどののち、清水の中で紙を漉き、絞ってあついお湯の入った鉄板の上で一枚ごとに干した作業等を思い出します。

 

(平成25年4月 本人記)

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中町在住 Mさん 女性
昭和27〜30年頃

小学校から帰ると、冬の間母が働く紙すき屋にいつも行っていました。
私の母は近所の家に紙すきの手伝いに行っていました。

母の「かずはぎ」の手伝いをしたり、材料に使う「くず(※)」で作った熱いくず湯を頂き、甘くておいしかったことを思い出します。「かずはぎ」したものを雪の上にさらすのもお手伝いでした。そばで家の人が紙を鉄板の上で乾燥させているのを見るのも楽しみでした。失敗した紙や、節紙をいただいて来て弁当の包む紙に使いました。丈夫で使い込むと布のような感じがしたと思います。また友人のおばあちゃんが寒風の中、屋根があるだけの小屋の中で「節取り」をしていました。暖といえば、今でいうアンカ、昔は「火ぼこ」とでもいったでしょうか。手を真っ赤にして冷たい清水で仕事をされていた記憶があります。

昔は何でも大変な時代でしたネ。

※くず・・・打解のときに加えていた「でんぷんのり」に配合する片栗粉。

(平成25年4月 本人記)


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